三菱ジープの軌跡.その1

ウイリス社と提携
第二次世界大戦後、被占領下の日本の街々を、進駐軍兵士が、シンプルでありながらブルドッグのような重厚味があり、馬力もありそうな車で走り廻っていた。それが、「戦場」というあらゆる苛酷な走行条件に耐え抜いてきたジープであった。戦時中、わが国でも“くろがね4起”という超小型軍用四輪駆動車が生産されたが、しかしこのジープは、大方の日本人が初めて目にするタイプの車であった。
時に、同車の開発メーカーである米国のウイリス・オーバーランド社は、戦争終結に伴って、このジープの世界的拡販戦略を展開していた。日本においても、1949(昭和24)年から倉敷レイヨン(株)との共同出資による倉敷フレーザーモータース(株)が設立され、駐留軍人・軍属、在留外国人向けに同社が輸入・販売していた。
そんな折、1950(昭和25)年8月に、警察予備隊が設置され、その装備のひとつとしてジープが採用されることになった。また、経済の再建が進むとともに、活発に動き始めた各産業界、あるいは公共事業を推進する各官庁にとっても、多用途的に駆使できるジープの性能は、極めて魅力あるものであった。
しかし当時の日本はまだ、外貨事情や通産省の国内産業保護政策等の事情もあって、完成品を大量に輸入できる情勢ではなかった。そこでまず、ノックダウン方式による日本での生産を目論み、ウイリス社の極東支配人が1950(昭和25)年12月に来日し、提携相手先メーカーを検討した。そしてこの時、ウイリス社の代理店である倉敷フレーザーモータースの強い推奨があって、新三菱重工業(株)(当時は中日本重工業)が最有力候補になったのだと言われている。
一方、1952(昭和27)年から1953(昭和28)年にかけて、日産→イギリス・オースチン、日野→フランス・ルノー、いすゞ→イギリス・ヒルマンという乗用車に関する技術提携の組み合わせが成立しようとしており、新三菱重工業も西ドイツのフォルクスワーゲン社との提携を爼上にしていた。しかしアウトバーンのような道路を前提に開発されたフォルクスワーゲンでは、当時の日本の悪路には向かないという意見も強かった。また、警察予備隊筋は新三菱重工業でのジープの生産に強い関心を示すようになっており、慫慂するようにもなっていた。
そこでまず、倉敷フレーザーモータース社が、ウイリス社から輸入する部品を名古屋製作所大江工場で組み立て、それの販売は倉敷フレーザーモータース社が行うという形のノックダウン方式による組立下請契約が1952(昭和27)年7月に成立し、同年12月に最初のCJ3Aの部品が名古屋港に到着した。そして1953(昭和28)年2月に第1号車を完成し、続いて、同月から3月にかけて林野庁向けに54台(6V電装)を組み立て、これをJ1と名付けた。また、3月から9月にかけて500台(12V電装)を組み立て、これをJ2として保安隊(1952年10月15日、警察予備隊を編成替え)に納入した。
そして、以上のノックダウン方式による生産を進めている間に、技術援助による完全国産化への準備も精力的に進め、1953(昭和28)年7月18日、ウイリス・オーバーランド輸出会社とジープを中心とする四輪駆動自動車に関する技術援助契約および販売契約を締結し、同年9月1日、正式に政府の認可を得た。
当時、ウイリス社ではジープの生産に関し9か国にわたる各企業と提携していたが、いずれもいわゆる下請契約であり、製造・販売権共に供与する契約を締結したのは、新三菱重工業とのこの契約が初めてであった。

三菱ジープ最終生産記念誌より