三菱ジープの軌跡.その4
車種の展開
かくして、国産化が完了した1956(昭和31)年頃には、年間1,900台前後を、翌1957(昭和32)年には4,000台近くのジープを生産するようになっていた。そして、民間向けでは、建設業26%、林業関係19%、電力関係13%となっており、また、保安庁(防衛庁)以外の各種官公庁向けの割合は都道府県庁41%、町村役場14%、市役所13%、建設・農林省19%となっており、用途例では民間、官公庁ともに連絡用が多く、運搬用、特殊作業用がそれに続いていた。
CJ3B-J3
国産化初の三菱ジープは、左ハンドルのCJ3B-J3。リアボディーに見えるボルト跡は、初期型に装着されていたスペアタイヤキャリア用。
このように、民間あるいは各諸官公庁等に多用途性が認められるようになるとともに、それら用途に対応するいろいろな仕様が要望されるようになり、積極的に開発を進めた。そして既に、基本型である4人乗り幌型(キャンバストップ・キャンバスドア)を大型化し、メタルドアとした7人乗りあるいは9人乗り、また、キャンバストップをメタルトップにしたもの、さらにワゴンスタイルのジープも1956(昭和31)年には誕生しており、また、これらの各タイプには、左ハンドル、右ハンドル、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジン等があり、1964(昭和39)年5月末までに25型式が生産された。
こうして短期間に、原型のジープをベースに、日本の用途に合わせて右ハンドル化など独自の改良・開発を行い、また、ディーゼルエンジンの搭載、車種の拡大などによって“ウイリスジープ”から“三菱ジープ”へと発展していったのである。
それらのうちの主なものを見ると、まず、4人乗りキャンバストップ・キャンバスドアタイプでは1953(昭和28)年に生産を開始した左ハンドル・ガソリンエンジンのJ3のバリエーションとして、右ハンドルに変わったJ3Rが1961(昭和36)年に誕生した。また、J3にディーゼルエンジンを搭載したJC3(左ハンドル)を1958(昭和33)年に生産を開始し、さらにその右ハンドル車J3RDを1961(昭和36)年に出した。
またJ3とほとんど時を同じくして生産を開始した防衛庁(当時、保安庁)向けのJ4は、米国域外調達用の特需としても採用され、J4Cとして1957(昭和32)年から生産を開始した。
大江工場メインアッセンブリライン名古屋製作所大江工場のメインアッセンブリラインで組み立てられる、民間向けのCJ3B-J10。工場内は完全量産化がうかがえる。 次に、J3のボディーを延長して6人の乗車を可能にし、メタルドアにしたJ10(左ハンドル、ガソリンエンジン)の生産を開始したのは1955(昭和30)年である。これを右ハンドルに替え、J10Rとしたのが1961(昭和36)年であるが、その前、1960(昭和35)年にJ10をさらに大型化して7人乗りとしたJ20(右ハンドル)の生産を開始しており、これに伴って、1962(昭和37)年以降、J10、J10Rの生産を中止した。また、J10のディーゼル車(1958年生産開始)JC10も1962年から7人乗り右ハンドルのJ20Dに引き継がれた。
続いて、ワゴン車を製作したのは1956(昭和31)年である。5人乗り、左ハンドル、2ドアのJ11(ガソリンエンジン)が最初で、これが1961(昭和36)年に右ハンドルのJ11Rとなった。さらに同じ年に6人乗り右ハンドル、4ドアのJ30、また翌1962(昭和37)年、そのディーゼル車であるJ30Dも生産されるようになり、J11の生産は1961(昭和36)年末で打ち切られた。
なお、ジープはノックダウン輸出を含め、1963(昭和38)年度末までに、インドネシアをはじめタイ、ビルマ、フィリピン、マレーシアなどに4,027台が輸出されている。
また、ジープの日本国内での販売権は倉敷フレーザーモータース(株)が持っていたが、最初に述べたような経緯を経て、新三菱重工業が製造権とともに販売権を取得すると同時に同社は解散し、新たに、新三菱重工業と倉敷レイヨン(株)の共同出資による国産ジープの総販売会社、菱和自動車販売(株)が1954(昭和29)年5月11日に設立され、同社によって、特に民需用の拡販戦略が展開された。
そして同社は、やがて1963(昭和38)年5月2日、新三菱自動車販売(株)と社名が改められ、新三菱重工業が生産するすべての自動車を扱うようになったのである。